便利な不便と不便な便利

コンビニがオフィスの中にやって来たそうだ。

つまり拡大された自販機がオフィスに導入されて「最小限の空間」で「最大限の商品」を並べる事になる。オフィスから外に出なくても「軽食」「飲料」「文具」などが買えるという事だろう。それはPOSのデータに基づきサプライを定期的に行う事になる。

これは「グリコ」がやっているオフィスの片隅に「100円をカエルの入金箱」に入れて、お菓子を選ぶというアナログチックなビジネスを商品拡大したデジタル改良版になる。コンビニは「便利」を追求するビジネスモデルだからチャネルを深耕する事は当たり前なのかもしれない。オフィス街ではコンビニの店舗もあるのだからこれは一種の「カニバリズム」にもなるのだろうな。

 

一方では「そこまでして売りたいのか?」とも思う。少なくとも「買い物」には場所を変えて「見る」「選ぶ」「知る」楽しさがあるのだが、コンビニは「便利」を販売しているのであり「楽しさ」を販売しようとはしない。コンビニの中では販売スタッフの方との会話HUMAN 2 HUMAN がまだ存在する。しかしデジタル化されると「会話」もなくなりHUMAN 2 MACHINEになり「会話」がなくなる。「音」がなくなり「臭い」がなくなり「無機質」になるのだ。

 

グーグルはこのデジタルコンビニの開発を進めている。つまり選んだ商品に対して支払いは自動的にスマホがスキャンして口座から自動引き落としになりレジが不要で「人」が不要になりここでも「音」と「会話」がなくなる。

なんとも「無機質」なSHOPだと思う。五感に訴える事なくロジカルに人が物を選び、自動的に引き落としされるなんて。

 

不便さが便利を求めてイノベーションを起こして来て人類が繁栄してきたのは間違いないと思うが、ここに来て「何か」がおかしい気がしてならない。便利すぎて不便になっている「事」や「物」が増えて来ているのではないかな。

「バリアーフリー」という概念で高年齢者の住まいは「段差」がない設計が主流だが、「楽」や「便利」は人間に「退化」をもたらす。ある程度の段差は無理のない運動となり筋力低下を防ぎ健康な体を提供できる。「便利」=「健康」では決してない。

優れた建築家は計算した「段差」「不便さ」を意図的に建築に取り込んでいる。

 

コンビニのこの新チャネルの深耕は「余計な御世話」「余計な便利」的な気がしてならない。

オフィス街ならまだしも、これが独り住いの多いマンションに出来たりすると「老人」は尚更、無口になり脳が退化してしまう。

「便利」は「会話」を決してしまう。

 

ITはある意味において「宗教」だと思う。それはすべてが一箇所に繫がって「同じメッセージ」を受発信して情報や思考の「同期化」が可能だからだ。これも一度に大量の情報を発信という「便利」が潜んでいる。しかも「⭕️」「❌」の世界であり「中途半端」は存在できないのだ。人間の脳は本来多様な「中途半端」なはずなのにITは「0」「1」だけ表現できて、人間はそれに合わせて思考をかえてきていると言える。

 

AIやロボットの時代はすぐそこまで来ているが、人間は何を求めているのか?「便利」の追求?「業績」の追求?「幸福」の追求?

いったい何を追求しているのだろうか?

トランプがなんだかんだ言ったって「グローバル」と「イノベーション」は止まらない。

 

だからこそ「目的」と「理由」をもう一度確かめなくてはいけない「時代」ではないだろうか?