11月のショウリョウバッタ

それは、そろそろ寒い時期に入って来て、多くの人々がコートを羽織って通勤を始めた朝の出来事だった。連結に近い5人がけの椅子に座っていた。ふと京浜急行の快速特急の床を見るとなんと小さなショウリョウバッタが居るではないか!人々の足下の空間を見つけて、いや、この場合は偶然踏まれない場所を確保していたと言った方が適切だった。僕以外は誰も気づいていない。前に座っている大きな男性が大きなブーツを履いているのが不気味だった。ショウリョウバッタの目線で見れば地獄のような風景ではなかったか。彼はもぞもぞと少し飛んで椅子の床を目指した。よし よし その調子だ。椅子の下は平和だから早く逃げ込むんだ。ところがもう少しというところで、大きな男の大きなブーツが動いてしまった。彼は殺気を感じたのか

方向転換をしてしまったのだ。やばいぞ、お前! そっちは駄目だ。女性のブーツや会社員のビジネスシューズやお姉さんのピンヒールが待ち構えているぞ!彼はとうとう通路の真ん中に出てきてしまった。お前!危ないってば! やがて電車内に横浜駅に到着するアナウスが流れた。降りる人々は、携帯のメールを閉じたり新聞を丸めたり、鏡で最終化粧のチェックをしたり降りる準備を仕始めたので、動かなかった人々の固まりが急に少しずつ動き出した。おい お前 本当にヤバいって! 彼は周りが動くので余計にじっとしている。やがて電車が止まった。おい!お前!本当に!・・・・  あの大きな男が動いた。あの大きなブーツの左足が彼の上を覆う。あつ!踏まれてしまう。その瞬間、彼は後ろへ数センチ動いた、動物的間だろうか?昆虫的本能であろうか?とにかく済んでのところで、彼は大男の右足踏んづけ攻撃を免れたのだ。ほんの数センチが運命を分けたのだ。しかし他の乗客の足攻撃が続くと彼は踏まれて、中から黄色の液体が出て踏みつぶされてしまうのだ。朝からそんな光景は見たくもない。

僕は腰を折り手を延ばし彼を掌で確保した。へんな目で僕を女性が見ていたがそんなこと知った事じゃない。彼から命を目の前で奪われるのを黙って見ている訳には行かないのだ。そうやって僕は彼を掌に確保して座り直し、両手で丸い空間を作ってやった。掌になんだか微かにモゾモゾする感じの生命がいるのだ。電車に新しい乗客が乗り込みやっと落ち着いたったところで僕は掌を開いてみた。ショウリョウバッタだ。よく見ると片足が無いではないか、なぜ季節外れの小さなショウリョウバッタが京急の快速特急に乗っていたのだろう?誰かの肩に乗ってしまったのか?自然界であればもう小鳥等の天敵に食べられていないのかもしれない彼なのだ。しかしかれは傷ついてはいるが生きているのだ。僕の掌で。軽く跳ねて僕の掌から飛び出てしい、僕のジャケットで飛び跳ねた。片足のくせにやるじゃないか!お前は。 おい 飛びすぎだ!お前。隣の寝ている人のコートまで行くんじゃない!僕が疑われてしまうだろう!

そんな事を叫びつつ、僕は彼をまた掌ドーム空間に押し入れた。ここがお前にとって最も安全な場所なんだぞ。モゾモゾとこそばゆい。さてどうしよう?これから先どうしようか?次のアポイント迄、約1時間。何処で彼を解放すればいいのやら・・・・。やはり草むらが一番なのだろう。京急の品川駅に草むらはあったかな?無いな。時間もあまり無いな。線路に落としてしまうか?いやいや、それは出来ないな。あーどうしよう。なんて事を考えていると、社内アナウンスが次は品川だと流れてきた。このまま乗っていれば都営浅草線に入って草むらなんて一切なくなってしまう。えい、仕方ない降りてしまえ! 降りてしまった。両手で彼を保護しながら僕は階段を下りて改札へ向かった。なにやってんだろう、俺は。 まあ良いか、旅は道連れと言うから、えつ道連れではない、僕が守ったのだ、彼を。守ったからには最後迄、守り通すのが男ではないか!彼にも小さな命があるのだから。そして改札を出て道路を渡った。

街路樹はあるが草むらが無いのだ。しばらく国道沿いを横浜方向に歩くと小さな名も知られない神社を見つけた。小さな階段を上がると小さな社があり、その横に小さな草むらがあった。僕はそこで彼を解放した。もう、京急に乗るんじゃないぞ!じゃな!ショウリョウバッタの小さなつぶらな瞳からちいさな透き通った朝露が一滴流れた気がする。夜明け前の流れ星のように。