哲学の道

 

京都には「哲学の道」がある。琵琶湖から流れる小川沿いの小道で明治時代には多くの文人がこの辺りにすんだので「文人の道」と呼ばれ、後に西田幾多郎らの哲学者が散策を始めたので「哲学の道」と呼ばれるようになった。ドイツ ハイネルベルグ大学も同じようにネッカー川沿いの高台にある小道の事を「哲学の道」と呼び多くの研究者達が思索を練る小道があるそうだ。 人は700万年前に最初に直立二足歩行という人間独自のスタイルを確立して現在に至っている。これは時速4キロぐらいの速度で歩くことが最も効率が良く、歩く事に意識を集中させずに思考を解き放つことが出来る早さだそうだ。京都の「哲学の道」は自然と人間社会の「際」に在る。鳥の声や風の音や季節の香りに包まれてその風景が一瞬一瞬で変わって行く。 文人や哲学者はその小道を時速4キロで解放された心で無心に歩いて多くの閃きを得たのだろう。 決してデスクワークやミーティングルームでは見えてこない何かが見えてくる。

 

 環境が固定観念の枠を払い新しい思考を生み出しているのだろうと思う。 正にインプットする感性が無意識機に働いているのだろう。 歩く姿は優雅だが脳細胞は常識を解放されて新しい組み合わせを大忙しで繋ぐ作業を行っているのだろうと思う。 そこでアウトプットする感性に変換して行くのだ。 「アイデアと移動距離は比例する」という名言がある。これもまたいつもいる環境を離れる程、固定観念から解放されて新しいアイデアが生まれてくる事を示唆している。 現場に近い環境で資料やネットから情報を得る事は誰でもできる。つまり左脳的な確立された情報から生み出されるアイデアには差がないのだ。最大公約数の「予定調和」しかそこには生まれない。それよりも「個の感性」を育て磨いて 自然環境の中でインプットする感性を開き、アウトプットする感性を活用する事が新しい思考の入り口だ。 そこには多種多様な感性が尊重される自由な世界がある。 


日本の産業会に足らないところはここだと思う。 今日から新年度である。 
京都まで行かなくてもそれぞれが自分の「哲学の道」を持ってはいかがだろうか?