渡辺淳一さんを憶う

 

 

「渡辺淳一さんを憶う」

〜エゴイズムという魅力〜

 

渡辺淳一さんが亡くなった。知的なエロチズムの小説が「日経新聞」

に連載され多くの企業の経営者に読まれた。第1面よりも「私の履

歴書」よりも先に多くの経営者は連載を読んだのではないだろう

か?固い経済誌の中に渡辺文学を連載することで、日経というイメージの予定調和を渡辺文学は壊したのだ。もちろん見事に全体が構

成され、渡辺氏の「知的ダンディズム」があればこそである。

現代はSMARTと言う言葉が重宝されて使われる。SMART CAR. SMART LIFE. 何でもSMARTを頭につければいいモノでもないと

思うがSMART PHONE 以来SMARTの命名が増えた。しかし

SMARTという言葉に「人間の本質」はあるのだろうか?

あまりにも綺麗で表面的な言葉にすぎないのではないか?

同時にそんな思いもするのは僕だけであろうか?

SMARTの対極にあるのが渡辺イズムだと思う。人間の欲望の本質を

追究し「男女のエゴはセックスにあり」と看破したのが渡辺文学で

ある。そこにはSMARTが「純愛」ならば対極の「不倫」「三角関

係」が存在する。すなわち人間の本質的なEGOが存在するのだ。

津川雅彦さんが聞いたそうだ。

「この小説に書かれているのは経験談ですか?」

渡辺淳一さんは答えた。

「君も模擬と創造だけで俳優が出来るかね?」

なんとも粋な会話だが、渡辺氏は人間のEGOの中に自分の身を

投じて経験をベースに渡辺文学というブランドを創り上げたという

事が想像出来る。

読者と渡辺小説の「感性の同期化」を計るには身を投じて「心の奥

INSIGHT」を実体験して「商品化(小説化)」したのがブランド「渡

辺文学」だと思う。

人間の欲望は根本的にはEGOである。全て価値観が異なり個は

EGOISTなのだ。それが教育という名の下にEGOからSMART

つまり個から群に変わって行く。表現をかえればSMARTの仮面を外せばEGOなのだ。ここに閃きの入り口があるのではないだろうか?

それにしてもSMARTという言葉はあまりにも表面的で危険ではな

いだろうか?僕には「人間味」と「魅力」が伝わってこない。

EGOという切り口で商品開発は面白いのではないだろうか?

「個の欲求を実現化するEGO商品」

カスタマイズ不可能と思われている商品をカスタマイズ化するのである。EGO CAR. EGO 家電. EGO HOUSE. EGO LIFE. EGO WATCH. EGO MUSIC. EGO SPORTS. EGO WEDDING.

田舎に移住する事は実はEGO LIFEではないだろうか?